設計事務所の売却・M&Aは、事業承継や売却利益の獲得を実現する手段として有効です。設計事務所の売却・M&Aを行う方法や流れ、近年の事例、成功可能性を高めるポイントをわかりやすく解説します。(中小企業診断士 鈴木裕太 監修)
設計事務所とは、一般的に日本標準産業分類における建築設計業を事業として営む事業所を指します。
総務省の日本標準産業分類では、建築設計業を「建築設計、設計監理などの土木・建築に関する専門的なサービスを提供する事業所」と定義しています。[1]
建築設計とは、「建築物を建設する際に、構造や材料、工費などの計画を立て、図面その他の方法で明示する行為」を意味します。[2]
また設計監理とは、「施工業者が図面通りの仕事をしているか、手抜き工事はないか、などの項目を監理すること」を指します。[3]
つまり、建設の計画や図面を作成したり、工事の監理を行ったりする会社や事務所を「設計事務所」と呼ぶのです。
なお業界内では、設計事務所は以下のように分類されています。
また、個人設計事務所の中でも、建築家個人が持つデザイン性を設計に強く反映する事務所に関しては、「アトリエ系設計事務所」と呼ばれています。
[1] 日本標準産業分類 7421 建築設計業(総務省)
[2] 建築設計とは(コトバンク)
[3] 設計監理とは(コトバンク)
設計事務所は、以下に挙げた5つの理由からM&A(会社や事業の売却)を検討します。
以下では、それぞれの理由をくわしく解説します。
帝国データバンクが公表する「後継者不在率」動向調査によると、2021年における後継者不在率は61.5%であり、2011年の調査開始以降で最低の水準までに改善されたとのことです。[4]
改善の兆しがあるとはいえ、約6割の企業で後継者がいないことは、全国の中小企業にとって深刻な課題といえます。
設計事務所も例外ではなく、後継者がいないことを理由に、事業承継を行えないケースが少なくありません。
中には、業績が良いにもかかわらず、後継者不在を理由に黒字廃業する設計事務所も存在します。
こうした背景から、親族や従業員内に後継者が見つからない設計事務所が、M&Aによって第三者に事業承継を図る動きが活発となっています。
コロナ禍や競争激化などの理由で、事業の先行き不安を抱えたり、実際に業績が悪化したりしている設計事務所は少なくありません。
業績悪化などを理由に設計事務所を廃業すると、そこで働いていた建築士をはじめとした従業員は仕事を失うことになります。
また、経営者自身にとっても、年月をかけて成長させてきた設計事務所が無くなってしまうことは寂しく感じられるでしょう。
上記の不安や状況を払拭・打破する目的で、一部の経営者は設計事務所の売却を決断するのです。
設計事務所ごと売却したり、事業の一部を売却したりすると、株式や事業の売却利益を獲得できます。
売却利益を獲得するために、設計事務所を売却するケースも活発です。
売却によってまとまった金額の資金を確保することで、余裕のある老後生活を送ったり、新しい事業を立ち上げたりすることが可能となります。
特に近年は、最初から会社や事業の売却(イグジット)を目的に起業する経営者(連続起業家)も増えているため、利益の獲得を目的とした設計事務所の売却はさらに活発化すると考えられます。
少人数で運営している個人設計事務所の場合、設計士である経営者自身が最前線で働いているところが多いです。
経営者自身の能力に対する依存度が高いため、仮に経営者が病気等で働けなくなった場合、急速に業績が悪化するリスクが高いと言えます。
長期的に安定して利益を生み出す設計事務所とするには、経営者への能力依存度を下げることが重要です。
しかし、小規模な個人設計事務所だと、従業員教育のノウハウや教育に割けるリソース・時間が十分に確保できていないケースが多いです。
そこで、経営者に依存している現状を改善する目的で、他の設計事務所や大手建設会社に会社を売却する事例が見受けられます。
M&Aによって他社の傘下に入ることで、買い手企業が有するリソースやノウハウを活用できるようになります。
従業員教育や業務標準化のノウハウを獲得したり、従業員教育に費やすリソース(人員等)を獲得したりできるため、経営者の能力に依存している現状を改善することが可能です。
零細〜中小規模の設計事務所の場合、ある一定以上の規模になると、リソースの少なさなどから事業の成長度合いが鈍化する傾向があります。
事業の成長が鈍化することで、従業員の待遇を良くすることも困難となってきます。
一方で大手建設会社や設計事務所の傘下に入れば、買い手企業が有する資金力やノウハウ、知名度などを駆使して、より事業の成長スピードを速めたり、従業員の待遇を高めたりすることが可能です。
こうしたメリットがあることを理由に、設計事務所の売却を検討する経営者の方も多いです。
設計事務所のM&Aや事業承継は、主に下記3つの方法で行います。
以下では、各方法の概要やメリット、デメリット、用いる場面などを解説します。
株式譲渡(会社売却)とは、自社の株式を売却することで、会社の支配権(≒経営権)を第三者に譲渡する手法です。
主に、法人として運営している設計事務所ごと売却する際に用いられます。
他のM&Aスキームと比較して、簡便な手続きでスピーディーにM&Aを行える点が最大のメリットです。
また、会社ごと売却するため、事業譲渡(事業売却)と比較して、売却金額も大きくなる傾向があります。
ただし買い手企業にとっては、不要な事業・資産や負債、簿外債務・偶発債務も引き継ぐリスクがあります。
そのため、多額の負債や未払い残業代、法的トラブルなどを抱えている設計事務所の場合は、買い手が見つかりにくいです。
また、株式を売却する手法であるため、個人で経営している設計事務所では活用できない点にも注意です。
事業譲渡(事業売却)とは、会社内にある事業の一部または全部を売却する手法です。
不要な事業・資産のみを売却するケースや、個人の設計事務所を売却するケースで用いられています。
最大のメリットは、売却・買収する資産や事業の範囲を選択できる点です。
不採算の事業のみを売却して経営状態の改善を図ったり、主力事業への集中を図ったりすることが可能です。
また、買い手企業が負債や不要な資産を引き継がずに済むため、多額の負債や簿外債務がある設計事務所でも売却できる可能性があります。
一方で、移転する契約ごとに個別で手続きを行う必要がある点がデメリットです。
M&Aの完了までに多大な時間や労力がかかります。
また、従業員から買い手企業への移転を拒否されるリスクにも注意が必要です。
親族に対する事業承継では、一般的に相続や贈与の手法が活用されます。
株式の売買を行わずに済むため、スムーズに事業承継を行える点がメリットです。
また、事業承継税制などの優遇制度も充実しており、こうした制度を活用することで税金の負担を軽減できます。
設計事務所のM&A・事業承継の流れ(手続き)は、誰に引き継ぐかによって異なります。
この章では、「親族内・従業員承継」と「M&A(第三者への事業承継)」に分けて、手続きの流れを紹介します。
親族内・従業員への事業承継は、基本的に以下の流れで実施します。[5]
以下では、各手続きを流れに沿ってわかりやすく解説します。
まずは、事業承継に向けた事前準備を行います。
具体的には、自社が抱える経営課題や現時点の業績などを整理・把握します。
そして、可視化された課題や現状をもとに、経営状況の改善や企業価値の向上(磨き上げ)を行います。
具体的に行うべき項目は、「設計事務所のM&A(売却)・事業承継を成功させるポイント」の章でくわしく解説します。
企業価値の磨き上げを行ったら、事業承継の具体的な計画(事業承継計画)を策定します。
事業承継計画とは、「いつ・誰に・何を・どのように継承するか」を具体的に明記した計画書です。
あらかじめ計画を策定することで、やるべきこと・手順を理解できるため、円滑に事業承継を行えるようになります。
事業承継を成功させるには、ただ株式や資産を承継するだけでなく、「経営者としての資質や能力を有する後継者を確保すること」や「親族や従業員、取引先などの関係者から理解を得ること」も重要です。
したがって、計画を策定したら、後継者教育や親族等の関係者からの理解獲得に向けた行動を開始します。
後継者教育に関しては、経営ノウハウや理念などを網羅的に伝える必要があるため、1年〜10年ほどの期間がかかります。
後継者の質によって事業承継の成功は左右されるため、スケジュールに余裕を持って後継者教育に臨むのがおすすめです。
後継者教育や関係者からの理解獲得などが一通り完了したら、あとは自社株や事業用資産などを承継するだけです。
会社の支配権を獲得するには、最低でも過半数、できれば特別決議を単独で行える3分の2以上の議決権(株式)を後継者が持っている必要があります。
事業承継が完了した後、後継者がスムーズに会社を経営できるためにも、分散している株式を集約しておくことが大切です。
また、相続などで株式が分散しないように対策することもポイントです。
M&Aによって設計事務所を第三者に承継する場合は、基本的に以下の流れで実施します。
各フェーズで行うべき手続きをくわしく解説します。
M&Aによる事業承継を決定したら、まずはM&Aをサポートしてくれる専門家(仲介会社など)との契約や、インターネット上で買い手候補を探せるマッチングサイトに登録します。
M&Aの専門家やマッチングサイトは、幅広い買い手候補を抱えているため、自力で行う場合と比べて効率的かつスピーディーに買い手候補を探せます。
また、税務や法務に関するサポート・アドバイスを専門家から得られるサービスも多いため、基本的には専門家やマッチングサイトの協力を得た上でM&Aを行うのがおすすめです。
次に、設計事務所の売却先を選定します。
仲介会社やアドバイザリー会社と契約した場合は、自社の条件や事業内容等に適う買い手候補を探してもらえます。
一方でマッチングサイトを活用する場合は、経営者自らの目で買い手候補を探すことが可能です。
買い手候補を一通りリスト化したら、実際に各企業に交渉の打診を行います。
アプローチする際には、まず匿名で事業内容などが書かれた資料(ノンネームシート)を相手に提示することが一般的です。
その資料を確認し、興味を持ってくれた買い手候補に対してのみ、秘密保持契約書を締結した上で事業内容や財務データ等が具体的に記載された資料を提供し、M&Aの交渉を行うかを判断してもらいます。
上記のプロセスを経ることで、自社の情報が外部に流出するリスクを軽減できます。
売り手と買い手双方がM&Aの手続きを進めると判断したら、交渉を開始します。
一般的には、交渉に先立ってトップ面談が実施されます。
トップ面談では、双方の経営者同士が顔を合わせて、お互いの経営理念やビジョンなどを確認し合います。
トップ面談で双方が理念等を確認したら、本格的に条件面の交渉を行います。
買い手側が事前にバリュエーションやスキーム検討を行った上で、条件交渉を実施するケースが一般的です。
買い手企業との間で条件面である程度合意したら、基本合意書を締結します。
基本合意書には、譲渡金額やM&Aのスキーム、今後のスケジュールなどを記載します。
譲渡金額などの条件は後ほど変更する可能性があるため、この段階では法的拘束力を持たせないことが一般的です。
一方で、買い手企業の意向で設定する独占交渉権については、基本的に法的拘束力を持たせます。
基本合意書の締結後、買い手企業によってデューデリジェンスが実施されます。
デューデリジェンスとは、売り手企業が抱えるリスクの把握やそれに対する対応策などを検討する目的で、買い手企業が売り手企業を調査するプロセスです。
具体的には、財務や税務、法務、ビジネスなどの観点から調査を行います。
売り手企業には、資料の提出やインタビューへの対応などが求められます。
調査量・範囲によっては多大な負担となる可能性があるため、専門家の協力を得ながら対応することがおすすめです。
買い手企業は、デューデリジェンスの結果を踏まえて、買収価格やスキームなどの変更を検討します。
検討の結果を踏まえて、売り手企業と買い手企業の間で最終的な条件面の交渉を行います。
条件交渉の結果に双方が合意したら、正式に最終契約書(DA)を締結します。
最終契約書には、譲渡金額やスキームなどの条件に加えて、表明保証や誓約事項などの項目を盛り込むことが一般的です。
弁護士などにサポートを得た上で、実態に合う契約書を作成しましょう。
最後に、契約書の内容にしたがってクロージングを実施します。
クロージングとは、M&Aの取引を実行することです。
たとえば株式譲渡の場合は、株式の引き渡しや対価の支払いが該当します。
クロージングを行うことで、正式に設計事務所のM&A(売却)は完了です。
設計事務所のM&Aを深く理解する際には、過去に行われた実際の取引(事例)が非常に参考となります。
この章では、近年行われた設計事務所(法人含む)のM&A(売却・買収)および事業承継の事例を5例紹介します。
事例では、売却に至った背景や用いられたM&Aの手法などを解説します。
設計事務所の売却や買収、事業承継を検討している方は参考にしてください。
Pattern Design:イギリスにある建築設計会社。FIFAワールドカップの会場など、世界的な大型スポーツ施設の設計を複数手掛けてきた点が強み。[6]
BDP Holdings Limited(BDP):大手建設コンサルタント会社「日本工営」の海外子会社として、アストラゼネカ本社の建築設計や、グーグル欧州本社ビルの設計・監理業務などを手掛けてきた会社[6]
譲り受け企業:スポーツセクター市場の設計・エンジニアリング分野に関する事業拡大、Pattern社が有するスポーツセクターの高度なノウハウや経験の獲得[6]
譲渡企業:BDPが英国外に有する拠点活用による国外事業の強化[7]
蒼設備設計:当時、マイスターエンジニアリングの子会社として、建築設備に関する設計・監理事業を運営[8]
池下設計:建築設計や生産設計、施工管理などの事業を運営[9]
譲り受け企業:営業面や人材採用面でのシナジー効果獲得
譲渡企業の親会社:グループ全体における経営資源の選択と集中[10]
譲渡企業:池下設計が有する経営資源の活用による事業の発展
ザ・スタイルワークス:当時、一級建築士の岩切氏が代表を務めていた建築設計事務所。デザイン性の高い設計や企画ノウハウが強み。
フェイスネットワーク:東京の世田谷区、目黒区、渋谷区を中心に、新築一棟マンションによる不動産投資事業を展開
譲り受け企業:新たな顧客層の獲得、ブランド力の向上
シグマシステム建築事務所:東京都新宿区に本社を置き、建築企画や設計監理の事業を運営
アスカ設計:東京都豊島区に本社を置き、建築設計や設計監理の事業を運営
譲渡企業:後継者不在に伴う第三者への事業承継
譲り受け企業:顧客および事業領域の拡大
今子浦臨海センター:山陰海岸国立公園内に立地する旅館「臨海荘」を運営
設計舎三日月:神奈川県横浜市で、土地の分譲事業に関する設計やコンサルティングを手がける設計事務所
譲渡企業:後継者不在にともなう第三者への事業承継
譲り受け企業:新規事業の開始(多角化経営の実践)
[6] BDP社によるPattern Design Limited 社の株式取得(日本工営)
[7] 日本工営グループのBDPが英設計会社を買収(日経クロステック)
[8] 蒼設備設計の株式取得(池下設計)
[9] 事業概要(池下設計)
[10] 連結子会社の異動(マイスターエンジニアリング)
[11] ザ・スタイルワークスの株式取得(フェイスネットワーク)
[12] 東京都事業引継ぎ支援センターのマッチング(東京商工会議所)
設計事務所のM&A(売却)・事業承継が成功する可能性を高めたいならば、以下3つのポイントを押さえることが重要です。
以下では、各ポイントをくわしく解説します。
設計事務所のM&Aに限らず、希望通りの条件で円滑に会社売却を行えるとは限りません。
買い手企業にも希望の条件があるため、自社の条件を押し通そうとすると、交渉が長期化・白紙となる可能性があります。
また、希望通りの条件で売却できても、M&A後に買い手企業とトラブルに発展するリスクも考えられます。
したがって、設計事務所の売却に際しては、あらかじめ妥協できる条件やトラブルへの対処法を考えておくことが大切です。
事前に考えておくことで、買い手との交渉をスムーズに進めることが可能となる上に、M&A後のトラブルにも臨機応変に対応できるでしょう。
スムーズに後継者や売却先の企業を見つける上では、企業価値の磨き上げが重要です。
企業価値の磨き上げとは、事業承継や会社売却を行う前に、企業価値を高めることです。
具体的には、無駄な経費を削減したり、強みとなる無形資産(ノウハウや技術力、優良な取引先など)を確立したりすることが該当します。
業績が悪く、かつ特に強みがない設計事務所は、後継者候補となる親族や買い手候補にとっては、引き継ぐ魅力がないと言えます。
そのため、いつまで経っても後継者や買い手候補が見つからなかったり、満足できる条件で売却できなかったりする事態となりやすいです。
こうした事態を避けるためにも、できる限り早い時期から、企業価値の磨き上げに注力することがおすすめです。
財務や会計、法務などの専門知識が必要となるため、M&Aの実務を売り手企業の経営者と社員のみでこなすのは難しいです。
そのため、基本的にはM&Aの専門家からサポートを得ながら設計事務所の売却を行います。
ただし、一口にM&Aの専門家と言っても、サービスの質は業者によって異なります。
M&Aを支援した実績がない専門家に実務を依頼すると、以下の事態に陥るリスクがあります。
上記の事態を避けるためには、M&A(特に設計事務所が当事者となった案件)の支援実績が豊富な専門家に実務を依頼することがポイントです。
事業承継の実現や事業の成長実現など、設計事務所の売却で得られるメリットは大きいです。
特に、優秀な人材や優良な取引先などの強みを有する設計事務所であれば、満足できる条件で売却できる可能性が高いと言えます。
後継者不在や事業の先行き不安などの課題を抱えている経営者の方は、ぜひ設計事務所の売却を検討してみてはいかがでしょうか。
(執筆者:中小企業診断士 鈴木 裕太 横浜国立大学卒業。大学在学中に経営コンサルタントの国家資格である中小企業診断士資格を取得(休止中)。現在は、上場企業が運営するWebメディアでのコンテンツマーケティングや、M&Aやマーケティング分野の記事執筆を手がけている)