学習塾における売却金額の相場は、教室数や生徒数、ブランド力などによって左右されます。学習塾のM&A動向と売却金額の相場・算出方法、高額売却を実現するポイント、近年の売却事例をくわしく解説します。(執筆者:京都大学文学部卒の企業法務・金融専門ライター 相良義勝)
少子化により学習塾の需要が中長期的に低下していくことは避けがたいものと見られますが、少子化は子1人あたりの教育費を押し上げる効果もあり、学習塾・予備校の市場規模は現在のところゆるやかに拡大しています(下図)。
引用:子どもの減少と相反する一人あたり教育費の増加(参議院)
特定サービス産業実態調査、経済構造実態調査(経済産業省)をもとに弊社作成
2020年3月以降、コロナ禍の影響で一時的に市場が縮小しましたが、同年後半には回復しました。2021年にはコロナ禍前と同水準に復帰して、以前と同様のゆるやかな成長傾向を示しています。[1]
2020年終盤以降、生徒1人あたりの受講料金が急激に高まる傾向も現れており、子どもへの教育投資の増加傾向をコロナ禍がいくらか加速したのではないかと思われます。
集団指導方式と個別指導方式の売上高を見ると、年々個別指導方式がシェアを伸ばしており、2009年には31.0%だった個別指導方式のシェアが2017年には37.0%となっています[2]。
今後もこの傾向は続くものと見られます。
個別指導方式はITとも相性がよく、オンラインでの指導に加え、AIやビッグデータの活用により生徒一人ひとりのニーズに応えるオーダーメイド指導が今後本格的に進む可能性が高いでしょう。
集団指導・個別指導を問わず、AIを用いたタブレット型教材の導入など、教材のデジタル化も進みつつあります。
また、生徒間や生徒・講師間のSNSを活用することも重要度が増していくと考えられます。
IT化・デジタル化された教育サービス(EdTech)の導入は、今後の学習塾経営の成否をわけるポイントとなるでしょう。
学習指導要領改訂により小中高のプログラミング教育が段階的に必修化され、大学入学共通テストでは英語のスピーキング試験の導入が予定されています。
これらの分野は従来の学習塾の守備範囲からは外れており、新分野に対応する教材・指導方法・管理方法の開発や人材獲得にはかなりのコストがかかるものと見られます。
プログラミングスクールや英会話教室、IT系・語学系アウトソーシング企業などとの協業も必要になってくるでしょう。
講師人材の獲得競争や労務コンプライアンス意識の高まりにより人件費の高騰が起きており、利益を圧迫する要因となっています。[2]
今後は、オーダーメイド指導、プログラミング・英語スピーキングの指導、EdTechの運用などに対応できる人材の確保が必要になり、人件費の問題はさらに拡大する可能性が高いと言えるでしょう。
[1]学習塾の動向;少子化とコロナ禍の影響(経済産業省)
[2]学習塾業界を取り巻く事業環境と今後の方向性(三井住友銀行)
学習塾業界では同業者同士のM&Aが盛んに行われています。
これには以下のような目的・メリットがあります。
ライフタイムバリューや新学習分野への対応力を高める上で、学習塾以外の教育事業(幼児教育・保育、英会話教室、プログラミング教室、成人向け人材教育など)を展開する企業とのM&Aも効果的であり、活発に行われています。
EdTech開発ベンチャーに大手学習塾が出資して業務提携を行う動きや、異業種の店舗チェーン企業が学習塾を買収して教育事業に乗り出すケースなども見られます。
一口に学習塾といっても個人経営・単一店舗の学習塾から多地域・全国展開の大規模学習塾まで存在し、売却金額は数百万円規模から数十億円規模にまでわたります。
教室数や生徒数だけでなく、指導方法や講師の質、学習環境、運営効率、認知度・ブランド性、デジタル化との親和性、地域性などの様々な要素が絡まり合いつつ利益率や成長性に反映され、企業の評価や売却金額を左右します。
売却金額はM&Aの相手(買い手企業)によっても異なります。
したがって、学習塾の一般的な売却相場というものは存在しないと言うべきでしょう。
M&Aにおいては、投資対象として見たときの売り手企業の価値(値段)を何らかの方法で評価し、それをもとにして金額交渉を行うのが一般的です。
企業価値の評価により売り手企業の収益性・成長性や経営統合により創出できる価値(シナジー、相乗効果)の大きさを測ることで、金額交渉のための合理的な根拠・目安をはじき出すことができます。
企業価値評価手法には様々な種類があります。
ここでは代表的な手法であるDCF法と年倍法の概要を解説します。
詳細な事業計画をもとにして事業活動によるキャッシュフロー(現金利益)を予測し、リスクや利回りを考慮して予測値を現在の価値に割り引く(ディスカウントする)ことで企業価値を算出します。
DCF法は、具体的な数字や算定過程を明示して金額の根拠を説明できるのがメリットです。
株主に対する説明責任を果たさなければならない上場企業のM&Aや、金額規模が大きくシビアな交渉が求められるM&Aでは、必須の手法と言えます。
DCF法で企業価値を評価するには、詳細な事業計画策定および業績・リスクの見積もりを実施できることが前提となります。
また、会計事務所などの専門機関への委託が必要となり、比較的高いコストがかかります。
中小企業の場合、事業計画や予測の根拠となるデータが十分にそろわずDCF法が十分に実施できなかったり、コストが割に合わなかったりするケースが少なくありません。
企業価値を「時価純資産+直近の営業利益×倍率」で算出する手法です。
「時価純資産(資産の時価評価額-負債の時価評価額)」でこれまでの事業活動の結果を評価し、「直近の営業利益×倍率(通例3~5程度)」によって将来性を評価します。
営業利益にかける倍率は、事業の見通しを大まかに見積もることで決定します。
手元にある資産・データの評価により企業価値を算出することができ、中小企業や個人事業主などでも適用しやすいのが利点です。
将来性についてはあくまで大ざっぱな見積もりになりますが、利用者にとって算定過程がブラックボックス化しにくいというメリットもあり、当事者間の信頼感や納得感が重視される中小企業の売却では年倍法がよく利用されます。
売り手企業の企業価値は、買い手企業と統合すると仮定した場合(A)と、このまま単独で事業を続けると仮定した場合(B)とでは、異なります。
一般的に、シナジーの分だけAの価値が大きくなります。
M&Aにおいては、Aの値段を上限、Bの値段を下限とする範囲内で交渉により金額が決定されることになります。
統合により大きな価値を創出できる相手(期待できるシナジーが大きい相手)を売却先としたほうがAの価値が高まるので、高額売却につながります。
買い手企業を選定する際には、なるべく幅広い相手から候補を探した方が有利です。
近年では様々なM&Aマッチングサイトが登場し、規模にかかわらず多種多様な企業がインターネットを介して出会うことが可能になっています。
M&Aマッチングサイトはマッチングに特化したサービスとして運営されているケースと、M&A仲介会社のサービスの一環として運営されているケースがあります。
前者の場合、マッチングが成立した後は売り手・買い手が直接交渉を行うか、必要に応じて専門機関(仲介会社やファイナンシャル・アドバイザー)へ交渉の支援を依頼することになります。
仲介会社が運営するマッチングサイトの場合、サイトに売却案件を登録している売り手企業と交渉するためには買い手側もその仲介会社との契約が必要になります。
買い手側の自由が制限されるため、マッチングの幅が狭められてしまうきらいがあります。
同地域で同様のサービスを展開する学習塾同士が経営統合した場合、教室の統廃合や人員整理などによる大幅なコスト削減を行わなければシナジーが期待できません。
そうした戦略が功を奏するケースもありますが、一般的には、事業展開地域が重複しない相手や、得意とする分野や指導方式などの強みが異なる相手を選び(可能であれば両方を満たす相手を選び)、相互補完の関係を構築するのが得策と言えます。
地理的にある程度離れた企業同士の統合でも認知度向上が期待できますし、IT導入に関して地理的距離は関係ないと言っていいでしょう。
一般的に、ITシステム・ソフトウェア導入の費用対効果は事業規模が大きいほど高まります。
オンラインでのやり取りやクラウド型のEdTechが一般化している現在では、遠く離れた企業同士の経営統合でも規模のメリットが期待できます。
異業種企業との統合でも、大きな相互補完シナジーが期待できる場合があります。
ただし同業種間の統合に比べて成功のハードルが高くなる傾向があるため、買い手企業の経営基盤や将来性を慎重に見極めることが重要です。
なるべく早期に検討を開始し、売却先の探索などを積極的に進めていくことが重要です。
「いい話があればいつか」などと考えて時機を待っていてもなかなか向こうから「いい話」はやってきませんし、業績が悪化して企業価値が下がり、好条件で売却することが難しくなるケースもあります。
後継者不在問題を抱えている企業の場合、現オーナー経営者の引退が間近に迫ってから第三者への事業承継を検討しだしたのでは遅すぎます。
時間的余裕がないと売却先の選定や条件交渉を落ち着いて進めることができないため、どうしても交渉力が落ち、望ましい条件で売却することが難しくなります。
ビーシー・イングス:広島・岡山・香川・大阪で小学生~高校生向けの学習塾(自社ブランド)と東進衛星予備校フランチャイジーを展開[3]
英進館:福岡・佐賀・長崎・大分・熊本・宮崎・鹿児島・広島で未就学児童~高校生向け学習塾を展開[3]
譲渡企業・譲り受け企業:中国・九州という隣接地域において学習塾事業を展開する両社が統合することで、地理的にも事業運営面でも相互補完の関係を構築すること[3]
VAMOS:個別カリキュラムによる大学・高校・中学受験生向け学習塾を都内3か所に展開(主力ドメインは中学受験)[4]
さくらさくプラス:都内を中心に73か所の保育所を運営[4]
譲渡企業・譲り受け企業:幼児から中学受験生にいたるまでを一貫してサポートする体制の整備[4]
湘南ゼミナール:神奈川県を中心に1都8県で自社ブランドの集団指導型学習塾(小中学生メイン)を運営するとともに、スプリックスおよび河合塾マナビスのフランチャイジーとして個別指導型学習塾と大学受験進学塾も展開[5]
スプリックス:新潟県および首都圏で個別指導学習塾とAIを活用した自立学習塾・オンライン個別指導塾を展開し、個別指導・プログラミング教育のコンテンツ開発なども行う[6]
譲渡企業・譲り受け企業:得意とする業態・展開エリアの異なる両社の統合による相互補完関係の構築、運営の効率化、IT投資・研究開発の連携[5]
ウルトラセンター:広島県呉地区で個人経営の学習塾を運営[8]
鷗州コーポレーション:広島・岡山・山口・大阪で未就学児~高校生を対象とした集団指導、AI活用の個別指導、オンライン指導、ネイティブ講師による英語指導、プログラミング教室などを展開[9]
譲渡企業: 経営資源の統合による教育サービスの向上
譲り受け企業:個人経営からより安定的な経営形態へと転換を図ること[8]
タケジヒューマンマインド:沖縄県で高校生を対象とした学習塾を展開[10]
昴:鹿児島・宮崎を中心に九州4県で学習塾を展開[10]
譲り受け企業:新しい市場と得意分野・役割の異なるビジネスパートナーを獲得し、安定的な経営基盤を構築すること[11]
マンツーマンアカデミー:個別指導塾「スクールIE」のフランチャイジーとして関東圏で36教室を展開[12]
ヤマノホールディングス:美容室チェーン運営、和装用品・宝飾品販売、着方教室運営、健康・生活用品の訪問販売・展示販売など[13]
譲渡企業:ヤマノホールディングスの経営資源を活用して経営課題(少子化対策・人材獲得)の解決を図ること
譲り受け企業:成長ドライバーとなる新事業の取り込み[12]
ビジョンポート:神奈川県内で学習塾159教室を展開する中萬学院の持株会社[15]
さなる:積極的なIT導入を図りながら、東京、静岡、愛知、九州などで300教室を超える学習塾を展開[15]
譲渡企業:少子化と競争激化が進み、新学習分野やEdTech導入への対応が求められる状況のなかで、経営基盤の安定化を図ること
譲り受け企業:中萬学院の地盤を逝かし神奈川県への拠点拡大を図ること[15]
[3]ビーシー・イングスの株式取得に関するお知らせ(英進館)
[4]2021年7月期 第3四半期報告書(さくらさくプラス)
[5]湘南ゼミナールの株式取得(子会社化)に関するお知らせ(スプリックス)
[6]事業案内(スプリックス)
[7]2021年9月期 第1四半期報告書(スプリックス)
[8]呉地区の塾『ウルトラセンターとの連携』について(鷗州コーポレーション)
[9]トップページ(鷗州コーポレーション)
[10]タケジヒューマンマインドの株式取得(子会社化)に関するお知らせ(昴)
[11]2021年2月期 有価証券報告書(昴)
[12]マンツーマンアカデミーの株式取得(連結子会社化)に関するお知らせ(ヤマノホールディングス)
[13]事業一覧(ヤマノホールディングス)
[14]2020年3月期 有価証券報告書(ヤマノホールディングス)
[15]中萬学院の持株会社株式取得について(さなる)
少子化という長期的な社会変動に加え、教育ニーズの変化、デジタル化、学習指導要領改訂・大学入試改革、人件費高騰などの流れを受けて、学習塾業界においてはM&Aによって事業変革を図る動きが活発化しています。
売り手側に立つ企業としても、早期から戦略的な態度で売却を検討していくことが求められています。
(執筆者:相良義勝 京都大学文学部卒。在学中より法務・医療・科学分野の翻訳者・コーディネーターとして活動したのち、専業ライターに。企業法務・金融および医療を中心に、マーケティング、環境、先端技術などの幅広いテーマで記事を執筆。近年はM&A・事業承継分野に集中的に取り組み、理論・法制度・実務の各面にわたる解説記事・書籍原稿を提供している。)