M&Aのマルチプル法(類似会社比較法)とは、類似上場企業の倍率を利用し、対象会社の価値を評価する方法であり、客観性の高さが長所です。計算式やメリット・デメリット、計算例をわかりやすく解説します。(公認会計士 西田綱一 監修)
M&Aにおけるマルチプル法(類似会社比較法とも言う)は、評価対象会社と類似した事業を展開している上場企業がある場合、その評価対象会社の価値は当該類似上場企業の株価水準から算出した価値とほぼ同水準になると仮定し、類似上場企業の売上高・各種利益・株主資本等の財務数値に対する企業価値又は株主価値の倍率(マルチプル)を利用して、評価対象会社の価値を評価する方法のことです。
バリュエーション手法には、マーケットアプローチ・インカムアプローチ・ネットアセットアプローチがあります。
マルチプル法の計算式は以下のように表されます。
評価対象企業の価値(または株主価値)=評価対象企業のKPI×マルチプル(倍率)
詳しくは、後述する計算例にて説明します。
類似会社候補の抽出は、事業内容・事業の成熟度・事業規模・財務上の特徴などに着目しながら、会社四季報・アナリストレポート・インターネット検索により行います。
類似候補会社を抽出した後は、より類似性の高い数社に絞り込みを行い、最終的には3社から5社くらいの類似会社を選定したいところです。
業界特性や評価対象会社の収益構造等により一般に適しているとされる倍率指標があります。
ただし採用する倍率指標を選定するにあたり最も重要なことは、株式市場が評価時点でどの倍率指標に着目しているかを見極めることです。
株式市場が着目している指標を見極めるには、倍率が狭いレンジに収まっているかどうか、倍率がバラついている場合は売上高や利益等との相関性があるかを確認すると良いでしょう。
各倍率の算出結果を用いて、評価対象会社の企業価値や株主価値を算定します。
基本的には、株式市場が着目する倍率指標の中央値を用いて企業価値や株主価値を算定すべきです。
各倍率指標の中央値を単純に平均するといった方法は、株式市場の評価を無視したあまりに大雑把過ぎるやり方であり、評価ミスの原因となるため、控えるべきです。
マルチプル法によるバリュエーションのメリットとデメリットを説明します。
ただし、下記にて示すのは一般的な特徴に過ぎないことには留意してください。
バリュエーションの方法 | メリット | デメリット |
---|---|---|
インカムアプローチ | ・将来性を反映させやすい | ・恣意性を排除できない |
マーケットアプローチ | ・客観性が高い | ・個別の事象を反映しにくい |
コストアプローチ | ・客観性が高い | ・収益性を反映できない |
マルチプル法のメリットは、特にインカムアプローチに属する評価方法と比較し、「客観性」に長けていることです。
また、特にネットアセットアプローチに属する評価方法と比較し「市場での取引環境の反映」がしやすい点です。
「客観性」とは、客観的な前提条件に基づいた株式評価が可能かどうかのことです。
誰が行ってもある程度同じような評価結果が得られるかどうか、評価に恣意性が入る余地が小さいかどうかを表しています。
「市場での取引環境の反映」とは、他の類似上場会社の株価動向などを株式評価に反映させることができるかどうかを表しています。
デメリットは特にインカムアプローチに属する評価方法と比較し、「固有の性質の反映」をしづらい点です。
これは評価対象会社が有する資産等の個別性や将来成長性などを適切に表すことが難しいことを示しています。
企業価値(時価総額+純有利子負債)÷利払前税引前償却前利益
EV/EBITDA倍率の平均は一般的には8~10であると言われています。
株式時価総額÷当期利益
一般に投資家が最も重視している指標です。
ただし当期利益は特別損益の影響を受けるため、倍率が歪められることも少なくありません
東証一部上場企業全体について加重平均したPERの数値は、以下の通りです。
東証一部上場企業のPERの目安は大体15.0~23.0である捉えることができます。
株式時価総額÷簿価純資産
PBRは不景気となり企業業績が悪化している環境下において株式市場が着目することが多い指標です。
PBR が大きいほど、市場が認識しているのれんが大きいといえる。
東証一部上場企業全体について加重平均したPERの数値は、以下の通りです。
東証一部上場企業のPBRの目安は大体1.2~1.3であると捉えることができます。
企業価値÷売上高
ベンチャー企業など、赤字だが成長性の高い企業や収益構造が極めて近似している業界に属する企業の評価に適しています。
東証一部上場企業全体に関してのPERの数値は以下の通りです。
企業価値合計は開示されているデータが存在しないため、分子は株価時価総額で代用しています。
また2022年4月から上場区分が変わる関係で、今回はそれ以前の数値を利用して算出しています。
この3つの数値を単純に平均すると、約0.75です。
東証一部上場企業の売上高倍率の目安は大体0.6~0.9であると捉えることができます。
[1]その他統計資料長期データ (日本取引所グループ)
[2]各月末現在の内国株式時価総額 (日本取引所グループ)
[3]2019年度決算短信集計【連結】《市場第一部》(日本取引所グループ)
[4]2018年度決算短信集計【連結】《市場第一部》(日本取引所グループ)
[5]2017年度決算短信集計【連結】《市場第一部》(日本取引所グループ)
この章ではマルチプル法を用いた企業価値や株主価値の計算例を挙げます。
X社を企業価値・株主価値評価の対象とし、X社と類似した会社としてY社をピックアップしたと仮定します。
X社の財務数値の数値は以下の通りであるとします。
Y社の財務数値は以下の通りであるとします。
Y社の株式については以下の通りであるとします。
X社の企業価値=EV/EBITDA倍率×X社のEBITDA
①Y社のEV/EBITDA倍率=Y社の(株式時価総額+純有利子負債)/Y社の(営業利益+減価償却費)=(150億円+25億円)/(45億円+5億円)=3.5
②X社の企業価値=3.5×(4.000万円+800万円)=1.68億円
X社の株主資本価値 = PER×X社の当期純利益
①Y社のPER=Y社の株式時価総額/Y社の当期純利益=150億円/10億円=15
②X社の株主資本価値=15.0×1,000万円=1.5億円
X社の株主資本価値 = PBR×X社の純資産
①Y社のPBR=Y社の株式時価総額/Y社の純資産=150億/75億=2.0
②X社の株主資本価値=2.0×1億円=2億円
X社の企業価値=売上高倍率×X社の売上高
①Y社の売上高倍率=Y社の企業価値/Y社の売上高=(150億円+25億円)/100億円=1.75
②X社の企業価値=1.75×7,000万円=1.225億円
ZOZO:ファッションECサイト「ZOZOTOWN」の運営等
Zホールディングス:Yahoo!に関するイーコマース事業等
譲渡企業:シナジーの発揮
譲り受け企業:ファッションECの強化
Zホールディングスが算出したZOZOの株式価値について、マルチプル法での株式価値は、市場株価基準法での株式価値より高く、DCF法での株式価値と大体同等でした。[7]
島忠:家具・ホームセンター商品の販売
ニトリ:家具・インテリア用品の販売
譲渡企業:シナジーの実現
譲り受け企業:ホームセンター事業への新規参入
ニトリが算出した島忠の株式価値について、マルチプル法での株式価値は、2020年10月28日を基準日として半年前までの株価を用いて算出した市場株価法での株式価値より安く、DCF法の株式価値よりも安かったです。[9]
新生銀行:商業銀行業務等
SBIホールディングス:金融サービス事業等[10]
譲渡企業:このM&Aは、支配権の取得を意図していながら買付数に上限のある部分買付けであり、残存株主に不利益が生じるおそれがあること、および、公開買付価格は低水準であり、新生銀行の本源的価値を反映した価格と考えられないことにより反対[11]
譲り受け企業:新生銀行をSBIホールディングスの連結子会社とするに足る議決権比率を取得し、SBIホールディングスグループと新生銀行グループの事業上の提携を構築・強化すること
SBIホールディングスが算出した新生銀行の株式価値について、マルチプル法での株式価値は、市場株価法での株式価値より高く、DDM法での株式価値より安かったです。[10]
[6] Z ホールディングス株式会社による当社株式に対する公開買付けの結果に関するお知らせ(zozo)
[7]ZOZO株式に対する公開買付けの開始に関するお知らせ(softbank.jp)
[8] ニトリホールディングスによる当社株式に対する公開買付けの結果に関するお知らせ(島忠)
[9]「島忠の株券等に対する公開買付けの開始予定に関するお知らせ」及び「島忠への公開買付けを通じた経営統合及び完全子会社化のご提案に関する説明資料」についてのご案内(ニトリホールディングス)
[10]新生銀行株式に対する公開買付けの開始に関するお知らせ (sbigroup.co.jp)
[11]SBI地銀ホールディングスによる当行株式に対する公開買付けに関する意見表明(反対、但し賛同のための条件を提示)のお知らせ(shinseibank.com)
[12] 新生銀行の株式に対する公開買付けの結果及び子会社の異動に関するお知らせ(SBIホールディングス)
ここまでマルチプル法について説明してきました。
しっかりとイメージしていただけたのでしょうか。
企業価値・株主価値の評価方法の選定を行う際は、それぞれの評価方法のメリット・デメリットを理解した上で行うことが重要です。
(執筆者:公認会計士 西田綱一 慶應義塾大学経済学部卒業。公認会計士試験合格後、一般企業で経理関連業務を行い、公認会計士登録を行う。その後、都内大手監査法人に入所し会計監査などに従事。これまでの経験を活かし、現在は独立している。)